昨日のブログに、講談社『今井凌雪の書道入門』全三巻(『入門』と略記)と、講談社『今井凌雪の書道:臨書を生かす』全三巻(『臨書』と略記)とは、関連性があると書いた。特に関連するのは「臨書」についての記載であろう。すなわち『入門』の方にも「臨書」に関する記載が散見するからである。『臨書』の方はタイトル通り「臨書」を制作にどのように生かすかの本なので、ここに書くまでもないが、特に重要なのは「私の臨書論」という上巻巻頭に置かれた一文である。
「私の臨書論」は、『入門』に書かれた内容を更に詳細に、論理的にまとめられたものと考えられるので、先ずは『入門』中巻「一章 古典と臨書」pp.6〜9を読むことが必要であると思われる。内容的にも読みやすいと思うので、その目次を挙げてみる。
一章 古典と臨書
一 書は古典を見て習う
二 書の古典
1 古典のいろいろな性格
2 自分の好きな古典を選ぶ
3 継続して習う
三 臨書と模書
四 臨書の効用
1 技術が高まる
2 鑑賞力が高まる
3 自己発見できる
五 臨書の注意点
私が特に重要だと思うのは「四 臨書の効用」である。何のために「臨書」するかが説かれており、「技術=手/鑑賞力=目/自己発見=頭・心」であると言えるからである。
中国歴代の書論にも、この「手」「目」「心」がキーワードとして登場することを考え合わせれば、「書」というものは、「臨書」を通じて「手と目と心」を鍛える世界と言えそうである。「臨書の効用(はたらき)」は、とりもなおさず「書の効用」になり、「自己発見できる」効用は、そのまま「(自己の)心を鍛える・頭を鍛える」効用に繋がると言えそうである。
昨今、「臨書」を軽視する傾向にある。その理由は、「臨書」しても個性が出ない、自分がない、創作につながらないから、にあるという。本当にそうだろうか。ならば技法の修練は、どこで培うのだろうか。現代性、芸術性、視覚性を追求するために「臨書」を軽視するならば、本末転倒であると思うが如何であろうか。